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居合塾大全


剣と禅そして武士道 

 

其の2

無外流剣法  剣禅一如



知り得る限り、古の剣道有段者はどなたも禅をやられていた 現代剣道の若い剣士で日常的に禅で坐られておられる方はどのくらいおられるだろうか ましてや、居合にいそしむ方はどれほどであろうか 


ここに、剣士であり著名な文士で禅僧でもあ

った 大森曹玄 おおもりそうげん  の 著「剣と禅

がある 

この書は「剣の道」とは、勝敗に関わること

なく生死を越えて真実の人間を完成する

「人間の道」であるとして古来の剣豪剣客た

ちがいかにして深奥な剣禅一如の妙境に悟入

したかを説いた著書である 

その 一部、無外流剣法の流祖である  辻  月丹

の剣と禅の章の記述を引用し紹介しよう         大森曹玄(1904 〜 1994)



” 剣者であり、禅者でもあった無外流剣術流粗  辻 月丹 は、

剣と禅は一如である とし、その内容・文章 の充実さに於いて一流とされる 

月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文に、 「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知の上 当流の剣法御懇望且つ御篤志につき…」とあり 、門弟達にも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったとされております “ 


では、剣と禅はなぜ 一如 なのか ... 


“ (はしがき) から)

・・・剣はその発達の歴史をみれば武士が真の武士たるための必須の修練、教養として学ばねばならないものであったのは日本人であれば誰でも知るところ その主旨は人間形成の心身を鍛えると云うものであったことは明らかであったが、ただその技が闘争の形態から勝敗に関わることは殺伐とした歴史とともにあった 

剣の本来の主旨は、勝ち負けを超えた人間本来の根源的な主体を剣のはたらきの上に発露して、自在を得ようとするのが剣の道というものである” 


その書の、辻(都治)月丹の章から 

以下、原文のまま

  

” ...  剣と禅とがその極致、ねらいどころにおいて一致することは間違いない そういう意味でいうならば「諸道に通ず」といわれる禅と一致しないものはひとつもないであろう 茶も花も書もみな禅と一致する それをもう一歩ふみこんで、はっきりと自分の剣は禅だと主張した者はないものだろうか 


ここにひとり、寛文から享保にかけて名を謳われた剣客に都治(辻)月丹がいて、明瞭に自分の剣は禅だと主張している (中略)... かれの伝書ほどその内容、文章等において充実したものはちょっと見当たらないと思う 古今随一だとは言えないまでも、少なくとも一流中の有力な一つであることは疑わない 一体に剣者には無学なものが多く、勿体ぶった伝書は大てい儒者か僧侶の代筆に成ったものである 

一刀流の仮名字目録といわれる免許状が、平仮名のたどたどしい文章であることが、かえって始祖一刀斎自身の手に成ったものだろうと珍重されるなどは、その反証だといってよい 

かれの撰した皆伝の伝書を「無外真伝剣法訣」という わたくしの想像では、たしかに月丹自身の書いたものだと思う その伝書の末尾にこう書いている 

 

 右無外真伝の剣法は禅理を以て教導いたす処、貴殿禅理学御了知の上。当流の剣法御懇望、且つ御篤志につき 云々 


これらをみても明らかなように、この流儀は禅理をもって教導するのだから、必ず禅をやり、しかもそれが「了知」といえる程度に達していなければ許さないのがたてまえである 


明治以後のことは知らないが、それ以前はこのたてまえが厳守されたものと思われる わたくしの接した、そして伝書を写させてもらった無外流皆伝の前野先生は禅も印可の老居士であった このように真っ向から禅をうたっている流儀、あるいは伝書は、剣禅一致といわれる剣の世界においても稀有のことであろうと思う 

わたくしは寡聞にして無外流の外には、まだ一つも見ていない 


月丹の高弟森下権平辰直は「無外流にては術ということを忌む

よって兵法の、兵道の、剣法のというなり またこの流については、真ということを宗とするなり」と語ったという(平井道雄氏『土佐武道史話』) つまり、かれの剣は、それによって宇宙の心理、人間の道を究めるという主旨なのであろう 

(中略)無外流伝書には、万法帰一の公案を記したあとで、行をかえて、「更参三十年」と書き、その次ぎに大きく一円相を描いている 

まことに意味深長であり、無外その人の禅心の深さを示すもののようである 都治月丹が、自鏡流の居合を取り入れたといわれている無外流の居合が今日まで伝わっている もと姫路藩の藩外不出のその秘太刀だったといわれる その秘太刀三本のうち、一番向上のものを「万法帰一刀」という 数歩歩んで、腰の高さで横に抜き払うだけのものである その刃音に逃れ去る敵をダラリと太刀を右手に提げて、魯の如く、追いもせずに見送るのみである  

この真境がモノになるには「更に参ぜよ三十年」どころか、おそらく生涯百錬万錬、学び去り、修し来たってもなお容易には至り得ないであろう (中略) 禅でいう「白雲未在」である 永遠になおこれ未在である そこではあるが、そこではない これが極意だ、と思い極めたその境地も、山上更に山ありである 停着することは許されない 「上に上あり吹毛の剣」「更参三十年」、どっかと腰を据えるべき極致とてはない 釈迦も達磨も、修行中である 「尚是未在、尚是未在」と願輪に鞭つのみである 

しょせん肯定は、否定そのものの真っ只中にあるのであろう 

剣人無外が一流の奥義を極め、師の印可を得て一たん教場を開いたのち、更に尚是未在と気づいて再行脚し、苦修二十年にして「一法実無外」と悟入した端的は果たして何であったろうか  かれが末期、坐定して入寂するまで一生受用したその吹毛剣は、上に上ありと伊藤一刀斎の詠じたように一生受用不尽底のものであったろう 十訣を撰し、その末尾に「更参三十年」と記し、一円相を画したとき、かれは謙虚にその自己の心境を吐露したのではなかったろうか  ” 


大森曹玄 著「剣と禅」 春秋社刊 五章 一法無外  より



そして、大森曹玄は他の章で剣の極致と禅理について 


刀剣術の本意は ... 百たび鞘を発し、百たび利を得るとも刀剣の本意に非ず ...   鞘の中  にあり と 


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